OYAOYAはじめの一歩
はじめの1歩、そして…
~40周年記念誌より~(平成19年発行)
『はじめの1歩、そして…』は、親の会のはじまりと、百合田紀恵子氏が会長を務めていただいた30年余の親の会の活動についてのお話です。
これは、親の会40周年記念誌『この子らと共に』(平成19年3月31日発行)の特集で、百合田氏にご執筆頂きました。
調布心身障害児(者)親の会初代会長 百合田 紀恵子
調布心身障害児(者)親の会が40周年を迎えるにあたり、昔のことを書いてみることになりました。今書いておかないと、あと10年たつといよいよ記憶が怪しくなるので、なんとかがんばってみることに致します。
長女、弥生が障害児だとはっきりしたのは幼稚園を探していた時です(S42年)。すべてに遅れていたので何度か病院をたずねていたのですが、あのころは「まだ分からないのでもう少し様子を見て」と言われていました。早期発見、早期治療の今から思えばうそのような話です。障害児、と分かった時の気持ちは会員の皆様と同じでしょうが、違うのはどこを探せば仲間がいるのか、全く見当がつかなかった、ということです。弥生のお友達もほしいし、私も同じ仲間がものすごくほしかった。丁度新聞で見た全国的な団体に問い合わせ、紹介してもらったのが、同じ深大寺町に住む貝瀬さんという人でした。彼女は障害児を施設に預け、3~4人の仲間と話し合っていた、という頃です。その人達と調布全体に呼びかけようということになり、昭和43年(1968年)3月末市報で呼びかけ初めての会合を持ちました。それがこの会のはじめの1歩です。
貝瀬さんがリーダーであることに、何の疑いもなくついて行っていた私に、とんでもない話が舞い込みました。彼女が妊娠したのです。私に代わりのリーダーになれ、いやならこの集いは(当時、親の集いという名称)解散すると脅かすのです。折角市内から20名近く集まってくれているのに、まだ半年なのに、です。仕方なく「生まれるまでね、それまでのピンチヒッターなら…」と不安ながらも引き受けてしまいましたが、すぐに私はただ慰め合っているだけの「集い」では心細く、市の力を借りたくて「会」にしたいと思いました。そして当時の係長笹本さんのアドバイスをうけて「調布心身障害児(者)親の会」が誕生しました。貝瀬さんですか?彼女は1人生まれたら、また妊娠、しばらく調布にいたのですが、そのうち引越してしまいました。そうして、私の長い長い会長生活が始まってしまいました。
何にも知らない、頼りない会長です。当時の市の担当者、木下さんが親身になって私を助けてくれました。どちらも20代、今思えばなんと危なっかしいことだったでしょう。まず何もない、ほんとに何もないのです。何を始めるにしても資金がいるということで、バザーをやることに決めました。でもどうやって?経験はなく何から手をつければいいのか分かりません。その頃バザーというと頭に思い浮かぶのが島田療育園のボランティア。調布にもいらっしゃる、というので訪ねていきました。
企業へお願いに行ったり、手描きのポスターを駅に貼らせて頂いたり、市民へのPRのビラまき等々…その方に教えて頂きました。副会長の臼田さんが、子連れ(当時2歳の弥生の妹)で若輩の私を精一杯助けてくださいました。調布駅南口にあった公民館のホールで開催したのですが、お客様が来るのか、売れるのかなどの心配は吹き飛ぶ盛況で20万の資金を得ました。資金もさることながら、障害児のことも分かってほしいという目的でしたので、これから毎年やろう!!と意気込んでいました。笹本係長もそういっていたのに、しばらくすると「親の会だけが資金かせぎをするのはよくないので、来年からは皆でやって分けることになった」というのです。私は約束が違うと大騒ぎしました。あんなに大変な努力をして成功させたのに…取り上げないで!それにうちの会のPRもかねているのに!と。でもダメでした。きっと、それならうちもうちもという団体があって収拾がつかなくなったのでしょうね。分からなくはない。というわけで、今の福祉まつりのバザーへと発展するのです。
さて、20万のお金持ちになりました。何をしよう?と役員で相談、幼児教室がほしいということになりました。最初は場所も児童館、夏休み中の教室、教育委員会の持ち家、と転々とし、指導員も親だったり、プロにお願いしたりで落ち着かない日々でした。市も大変協力的で、車で送迎していただいたりもしたのですが、親の会が運営している、というと出席率がとてもわるい。信用がないのだなぁ…とつくづく思ったものでした。市長(当時、本多市長)への手紙作戦で2年目からは市の運営にしていただけました。市になると急に出席率がふえました。それ以来ですね、私が何を作っても公にお任せしなくては…と思い込んだのは。
後年、市の職員から「百合田さんは何でも作るだけで、後は全部市に任せるんだから」といわれたものでした。「そうよ。それだけ市は信用されているんだから喜んで。」と返してはいましたが。
「あゆみ」(名称も私達が考えました)はそうして出来ました。全国的にも注目され、テレビでも紹介されました。「あゆみ」の成り立ち、歴史は「あゆみ」の機関誌に残されています。
その頃、「特殊学級1年から」という運動も並行してやっていました。当時は特殊学級は3年生からしかなくて、重度の子は就学猶予、就学免除という選択しかありません。何とか親の願いが聞き入れられ、S44年4月から第一小学校、滝坂小学校に特殊学級を1年生から設置していただけました。弥生はその一期生です。
信じられますか?その頃はこの子達は中学を卒業すると、就職するのが普通だったのです。ごく少数の人達は遠くの立川養護学校に通うか八王子養護学校の寄宿舎に入っていたのですが…。普通の子は高校、大学を出てから働くというのに。この子達も近くの高校へ行かせたい。世の中へ出るのは遅くていい。というので近隣市の人達と「高校設置の運動」もやり始めました。府中養護学校(府中朝日養護学校の前身)が開設されたのはS52年だったでしょうか。弥生が中学3年の時でぎりぎり間に合いました。
やることはいっぱいあります。高校を出た後の作業所です。S53年、親の会で作業所を運営しながら市に建設をお願いし始めました。それがS58年の「希望の家」へとつながっていきます。その時の市をあげての騒動はテレビ、新聞は連日、また終わってからもいろいろな冊子で記録が残されています。(私の手元にも4冊あります)。悲しい騒動でしたが反面、多くの市民(市外の人々も)、役所の職員、議員などの方達に作業所というものに関心をもっていただけました。すんなり建つより、もしかしたらよかったかもしれません。(金子市長時代)
作業所が出来ても親はまだ安心できません。「親亡き後」です。希望の家のことから市街地に建てるのは難しい、と思い関東村跡地になんとか、という思いでS56年から具体的に動き出しました。市長さんにでも福祉部長さんにでも口を開いたらそのことを話しました。「もう、分かってるから」きっとそう思ってらっしゃったと思います。この大きな希望は絶え間なく、そしてその時々の要望は、毎年行われる市長と親の会役員との会談で伝えることが出来ました。お蔭で、私達親の会と行政は珍しいバリアフリーの関係にあると、この世界に詳しい寺崎勝成氏に驚かれたものです。この様子はH6年、会員で漫画家のみずのけいさんが「ママがんばって」という漫画で全国に紹介してくれました。一度も机を叩くことも、座り込むこともなく、また、大きな声をあげることさえなく、いろいろな施策が展開されました。20年にわたる総合体育館内の喫茶「径」もこうした中から誕生しました。学校施設の中の「まなびや」など全国的に珍しいと言われる事をいくつもです。その頂点が、調布市社会福祉事業団運営の「なごみ」「すまいる」「そよかぜ」です(吉尾市長時代)。「ちょうふだぞう」を加えて今、私達の核となって存在します。もちろん、まだまだ足りないものだらけでしょうが、この核があるから花を咲かせ、実をつけていけます。
40年前は何もなかったので、一つずつ積み上げていけばよかったのですが、今は国の方針がくるくる変わり、ついていくのが大変です。皆でよく見極め、そして、話の分かっていただける行政を持った幸せを精一杯生かして、この子達の幸せのため1人1人力を合わせていきたいと思います。
さて、私の長女、弥生ですが、国領保育園、滝坂小学校、神代中学校を経て、府中養護学校、5ヶ月間だけの就職、翌年から都立作業所、最後は「そよかぜ」で1年余でした。39歳3ヶ月の生涯でした。お話したように何もない時代に育ってしまい、ほとんどが間に合わない状態でした。狭く辛い道を歩くしかなく、その生涯を思うとやはり涙がにじみます。
今、私は、事業団の設立時に心血を注いで下さった板橋さん(事業団事務局長で退職)のもとで、高齢者のグループホームのためのNPOに関わっています。当時の加藤助役、倉田部長、そして私の会長初めての時の担当であった中山(木下)さんがそのメンバーです。弥生が引き合わせてくれた人達です。その他にも30余年の長い会長時代に沢山の素敵な出会いがありました。
そのうち弥生がいる世界にいきます。そのときは思いっきり抱きしめて、いっぱいのお詫びとお礼を言いたいと思っています。「いいお母さんでなかったね、ごめんなさい、でもまた、あなたのお母さんにならせてね」「沢山の素敵な人達と会わせてくれてありがとう、お母さんの人生はあなたのお蔭で幸せだったよ」。
※現在は特殊学級は特別支援学級、養護学校は特別支援学校になっています